建礼門院がなくなる直前に、次のような描写がある。
御念仏のこえ、ようようよわらせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽そらに聞ゆ。
この直後に、建礼門院は息を引き取る。そして、この物語全体も、終わりを迎える。
阿弥陀如来の来迎をイメージしている、といわれるこのシーンだが、映画を見慣れた現代人は、すぐに、SFXを駆使した特撮シーンを想像してしまう。
一度読んだら、二度と忘れられないシーンだ。
平家物語ノート
2012年10月3日水曜日
灌頂巻:建礼門院がこの物語の主題を語る
建礼門院は、この物語を総括するように、次のように語る。
父の清盛の、傍若無人な非道な振る舞いが、平家一門の滅亡を招いてしまった。幼くしてなくなった安徳天皇と、平家一門が、成仏できるように、ひたすら祈りを捧げている。
この言葉は、この物語の作者が、一番言いたかったことを、そのまま語っているように思える。
父の清盛の、傍若無人な非道な振る舞いが、平家一門の滅亡を招いてしまった。幼くしてなくなった安徳天皇と、平家一門が、成仏できるように、ひたすら祈りを捧げている。
この言葉は、この物語の作者が、一番言いたかったことを、そのまま語っているように思える。
灌頂巻:後白河法皇の大原御幸
大原の寂光院に住む建礼門院の元に、後白河法皇が訪れる。
後に描かれた絵画などでは、後白河法皇が一人、さびれた寺を訪れる、というイメージで描かれているが、この物語の中では、随行に20人弱ほどを引き連れての、大掛かりな御幸として描かれている。
建礼門院は、夫の高倉天皇が、若くして亡くなった後に、清盛の手によって、後白河法皇と再婚させられそうになったが、さすがにこれを固辞した、ということがあった。
後白河法皇が訪れたとき、迎えにでた女性が、実は平治の乱で不運の死を遂げた信西の娘であることが明かされる。
平治物語も読んでいる人は、このシーンでいろいろな感慨にふけることだろう。そんなところにも、この物語の作者の、心憎い演出が見て取れる。
後に描かれた絵画などでは、後白河法皇が一人、さびれた寺を訪れる、というイメージで描かれているが、この物語の中では、随行に20人弱ほどを引き連れての、大掛かりな御幸として描かれている。
建礼門院は、夫の高倉天皇が、若くして亡くなった後に、清盛の手によって、後白河法皇と再婚させられそうになったが、さすがにこれを固辞した、ということがあった。
後白河法皇が訪れたとき、迎えにでた女性が、実は平治の乱で不運の死を遂げた信西の娘であることが明かされる。
平治物語も読んでいる人は、このシーンでいろいろな感慨にふけることだろう。そんなところにも、この物語の作者の、心憎い演出が見て取れる。
灌頂巻:美しい寂光院の描写
平清盛と正室時子の娘にして、高倉天皇の后であった建礼門院。彼女が、壇ノ浦で死に切れず、死者の弔いの地に選んだのは、大原の寂光院だった。
この巻での、寂光院の描写が美しい。京の町からは遠く離れ、寂しい山奥で、鹿の音がかすかに聞こえ、など、屏風絵や、映画の美しい1シーンになりそうなその描写力にうっとりしてしまう。
今も、多くの人が、この物語で作られたイメージに触発されて、この場所を訪れる。物語世界の現実世界への影響の大きさを、改めて実感させられる。
この巻での、寂光院の描写が美しい。京の町からは遠く離れ、寂しい山奥で、鹿の音がかすかに聞こえ、など、屏風絵や、映画の美しい1シーンになりそうなその描写力にうっとりしてしまう。
今も、多くの人が、この物語で作られたイメージに触発されて、この場所を訪れる。物語世界の現実世界への影響の大きさを、改めて実感させられる。
灌頂巻:建礼門院をめぐる後日談
平家物語は、巻第十二の六代被斬をもって終わりを告げた。しかし、その他に、灌頂巻という、建礼門院をめぐる後日談の巻がある。
この巻は短いが、建礼門院が自らの波乱の生涯を振り返りながら、それが、この物語全体のストーリーを振り返ることになっている。
現代の小説や映画でも、同じような構成が見られるが、こんな古い時代から、そうした手法が使われてきた、ということに、素直に驚きを感じる。
この巻は短いが、建礼門院が自らの波乱の生涯を振り返りながら、それが、この物語全体のストーリーを振り返ることになっている。
現代の小説や映画でも、同じような構成が見られるが、こんな古い時代から、そうした手法が使われてきた、ということに、素直に驚きを感じる。
2012年9月17日月曜日
巻第十二:平家一門の断絶
物語の最後は、平重盛の嫡男、維盛の子、六代の死が描かれる。
出家し、文覚上人のいる高雄の地で修行を重ねていたが、鎌倉からの執拗な追求を受け、ついに、最後の日が訪れる。
かしらをばそったりとも、心をばよもそらじ。
というのが、鎌倉側の六代に対する見方だった。
ついに、鎌倉に送られる途中、駿河の国の田後川というところで、首を切られた。
それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。
というのが、この物語の最後の言葉である。
この巻第十二の次に、灌頂巻があるが、実質的には、この巻第十二が、この物語の最後といえるだろう。
出家し、文覚上人のいる高雄の地で修行を重ねていたが、鎌倉からの執拗な追求を受け、ついに、最後の日が訪れる。
かしらをばそったりとも、心をばよもそらじ。
というのが、鎌倉側の六代に対する見方だった。
ついに、鎌倉に送られる途中、駿河の国の田後川というところで、首を切られた。
それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。
というのが、この物語の最後の言葉である。
この巻第十二の次に、灌頂巻があるが、実質的には、この巻第十二が、この物語の最後といえるだろう。
巻第十二:隠岐へ流された文覚上人
頼朝に、後白河法皇からの院宣を届けるなど、物語の中で重要な役割を果たしていた文覚上人。
しかし、頼朝の死後は、その存在は、周囲から煙たがられ、邪魔者としてしか、映らなくなる。
特に、後白河法皇亡き後、朝廷の実力者になった後鳥羽天皇は、文覚上人から、政治ではなく遊びばかりに熱心だと批判され、文覚上人を快く思っていなかった。
ついに、文覚上人は、80才を迎える直前に、謀反の疑いをかけられ、隠岐の島に島流しの刑にあう。
文覚上人は、後鳥羽天皇を深く恨んでいたが、後年、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は、奇しくも、同じ隠岐の島に流された。
しかし、頼朝の死後は、その存在は、周囲から煙たがられ、邪魔者としてしか、映らなくなる。
特に、後白河法皇亡き後、朝廷の実力者になった後鳥羽天皇は、文覚上人から、政治ではなく遊びばかりに熱心だと批判され、文覚上人を快く思っていなかった。
ついに、文覚上人は、80才を迎える直前に、謀反の疑いをかけられ、隠岐の島に島流しの刑にあう。
文覚上人は、後鳥羽天皇を深く恨んでいたが、後年、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は、奇しくも、同じ隠岐の島に流された。
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