2012年4月15日日曜日

巻第三:鬼界ヶ島からの帰還

建礼門院の男子出産の祈願のため、重盛の進言によって、恩赦を行うことになった。

その恩赦によって、鹿ケ谷の陰謀の罪によって、遠く鬼界ヶ島に流されていた3人のうち、丹波少将成経と平の判官康頼は、許されて都に戻ることになった。

俊覚僧都は、鹿ケ谷の陰謀の主犯と判断され、帰還は許されなかった。

少将成経は、帰還の途中、期せずして、父が流された地で、父の墓と対面する。

一方、島に残された俊覚僧都は、結局、島でその生涯を終えることになった。

物語は、俊覚を助けなけなかったことを、平家の滅亡の一因としている。

巻第三:信仰心が深かった清盛

清盛は、自分の娘を天皇の后としたが、その建礼門院が懐妊した。生まれるのが男と女では大違い。清盛は、比叡山の天台座主を始め、高僧という高僧に、男子の誕生を祈願させた。

清盛は、信心深いというイメージはないが、厳島神社の創建といい、ここぞというときは、神や仏に対して祈願している。

武力を背景に成り上がったというイメージが強い清盛だが、自分の権力基盤の弱さを、清盛は誰よりも実感していたに違いない。

だからこそ、平家の危機の際には、神や仏の力に頼ったのだろう。

2012年4月8日日曜日

巻第二:平康頼の都への想い

鹿ケ谷の陰謀が発覚して、鬼界が島に流された平康頼。一日でも早く都に戻りたい一心で、島の中に熊野大社のような施設を作り、ひたら祈りを捧げていた。

自ら祝詞をつくり、それを卒塔婆に入れて、海に流した。誰かが拾って都に贈ってくれることを望んだのだ。その数、なんと千個。

その祈りが通じたのか、そのうちの1つが偶然に厳島神社まで流れ着き、知り合いの僧を通じて、都に家族の元に届けられた。

その話を聞いた清盛も、さすがに平康頼に哀れみを感じたという。

巻第二の最後に紹介される、感動的なエピソードだ。

巻第二:四天王寺で伝法灌頂を受ける後白河法皇

来るべき清盛との全面対決に備えるためか、後白河法皇は、紀三井寺の僧正から、密教の秘法をうけ、比叡山を配慮して、紀三井寺をさけて浪速の四天王寺で伝法灌頂を受ける。

しかし、これに比叡山側が反発。後白河法皇は、清盛に命じて比叡山の制圧を命じる。これにより、比叡山は一気に荒廃してしまう。

続いて、物語の中では、信濃の善光寺が、その580年の歴史に中で、初めて炎上してしまったことが記されている。

筆者は、こうした状況に対して、王法が滅びる時はまず仏法がまずはじめに滅びる、とも、これは平氏の没落の前触れであるとも記している。

巻第二:世渡り上手の藤原実定

いつの時代も、世渡り上手な人物は存在するものだ。この物語には、藤原実定という人物が登場する。

藤原実定は、知人の進言に基づいて、清盛が築いた厳島神社に長期間滞在し、自らの出世をひたすらに祈った。

そして、都に戻り、その参拝を清盛にアピール。すると、清盛はその切実さに感心し、ついには自分の子供を退けて、藤原実定を大納言に任命する。

物語の筆者は、成親とこの藤原実定を対比し、成親もそれぐらい清盛にアピールしておけば、流罪先で不遇の死を遂げることもなかったろうに、と記述している。

巻第二:因果応報の世界観

鹿ケ谷の陰謀が発覚し、首謀者である人々が捕らえられ、西光法師はすぐに殺され、大納言の藤原成親は流罪先で死を遂げる。

この二人の死について、平家物語では、それぞれ過去にあった二人の不実の事件を紹介し、それが原因で、この死を迎えたのだと解釈している。

これは、因果応報という仏教の世界観をよく表している。

巻第二:天台座主、明雲の流罪

平家物語は、平家の没落の物語だが、それにまつわる様々なエピソードも紹介している。その中でも、比叡山の天台宗の延暦寺についての記述が実に多い。

巻第二の冒頭でも、天台座主の明雲が、後白河法皇によって天台座主の座を追われ、島流しの罪に問われるエピソードが紹介される。

明雲は、支持者によってかくまわれ、島流しは回避される。平家物語の筆者は、これは全くの冤罪であるとの立場を明確にしている。

天台座主の流罪という事態は、開闢後未だに発生したことのない大事件であり、しかも、明雲は清盛の推挙により、天台座主の座についている。つまり、これは清盛と後白河法皇による権力争いを象徴する事件なのだ。