2012年5月16日水曜日

巻第五;奈良炎上す

清盛は、何かと反抗する奈良の興福寺に対して、いよいよ追討命令を下す。

4万人の軍勢が奈良に2方から押し寄せ、火を放ち、興福寺を始め、奈良一帯は火の海と化した。

東大寺の上にのぼった人はおよそ1700人。建物もろとも焼け落ちたその様子は、まさに地獄絵だったという。このような法難は、中国にもインドにも例はない、と物語は語る。

平氏の軍勢から逃れた人々は、吉野、あるいは山奥の十津川村にまで逃げたという。

巻第五:わずか6ヶ月で都を京に戻す

源頼朝の挙兵に応じてか、清盛は、遷都からわずか6ヶ月しかたっていない、その年の12月に突然、福原を捨てて、都を京に戻した。

物語の中では、清盛はそもそも福原に都を遷した原因を次のように記している。

京は、比叡山や興福寺のある奈良に近いので、両寺の僧兵が、容易に京に入り、狼藉を働く。両寺から遠い福原に都を遷せば、そうした事態を防ぐことができる。それが、真の原因だと。

巻第五:神護寺の文覚上人

この物語の中でも、深く印象に残る登場人物の一人が、文覚上人だ。

若い時に、熊野はもとより、金峰山、葛城、白山、立山、富士山、箱根、羽黒山など、修験道の名だたる名所で修行し、武士と戦っても引けを取らなかった。

神護寺を再興し、その勧進の仕方が過激すぎて、伊豆に流され、そこで源頼朝と出会う。頼朝のために、福原を訪ね、後白河法皇から院宣を預かり、頼朝に届けた。

文覚上人は、物語の中で、そのような超人的な活躍をした人物として描かれている。

巻第五:荊舸と始皇帝のエピソード

清盛の福原遷都を絶好のタイミングとみたのか、源頼朝が関東の地において挙兵する。挙兵は失敗し、千葉に逃れる。

物語の中では、続いて、日本の歴史上、謀反を起こして朝敵となった歴史上の人物を紹介し、その後で、中国の例として有名な、荊訶と始皇帝のエピソードを紹介している。

荊訶が始皇帝に近づくために、同士の元を訪ね、始皇帝を追いつめながら、最後には、逆に始皇帝に殺されるまでを、長々と記している。

巻第五:福原遷都の衝撃

治承4年(1180年)6月、清盛はついに福原への遷都を決行する。桓武天皇の794年の京への遷都以来の遷都の衝撃は、大変なものだった。

物語の中では、神武天皇以来の遷都の例を事細かに紹介しながらも、桓武天皇以降は行われていないことを、これでもかと強調している。

さらに、平氏の先祖は、桓武天皇に繋がることを紹介しながら、その桓武天皇の決めた都から離れることは、何と恐れ多いいことか、と嘆いている。

しかも、福原は、海に面していたことから、町の作りも五条通りまでしか造れないほど狭かった。

京の都には、次のような和歌が内裏の柱にかけられたという。

咲きいずる花の都をふりすてて風ふく原のすえぞあやふき

2012年5月2日水曜日

巻第四:源頼政の辞世の句

以仁王に挙兵を促しながら、多勢に無勢、あっさりと平家の軍門に下った源頼政。宇治の平等院に追い込まれ、自ら切腹して果てた。

その辞世の句といわれる歌が、平家物語の中で紹介されている。

埋木のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける

源氏でありながら、平治の乱においては、平家方につき、平家の支配する世の中で、肩身の狭い想いを味わい、和歌の上手さだけで出家したという、そうした自らの境遇を歌っている。

平家物語の中でも、とりわけ印象に残る和歌の一つだ。

巻第四:戦闘になると登場人物がいっぱい

以仁王の挙兵により、平家との戦闘が開始される。戦闘が始まると、がぜん、登場人物が多くなり、読んでいても、誰が誰だか、わからなくなってくる。

戦闘においては、自分がどのような成果を上げたのかが重要になる。相手の大将を討ったのは誰か、敵前逃亡したのは誰か、ということが、つまり個人の名前が大事なのだ。

武士の時代になるとは、ある意味では、個人の時代になった、ということを意味している。

巻第四:当時の公文書が載っている

以仁王の挙兵に当たって、中心となった近江の三井寺は、当時の寺社勢力の中心だった、比叡山と興福寺に、挙兵を促す文書(牒状)を送る。平家物語には、その内容が、そっくりそのまま紹介されている。

牒状は、解説によれば、当時の公文書に当たる。この内容が本物かどうかはわからないが、いかにも本物めいた雰囲気で、物語に真実味を与える効果を持っている。

巻第四:嵐の前の静けさの高倉上皇の厳島行幸

安徳天皇に位を譲った高倉上皇は、清盛の勧めに応じて、厳島神社に行幸する。これは、過去の歴史にないことで、比叡山をはじめとした各方面から反感を持って迎えられる。

しかし、平家物語のこの行幸の記述は、いささか、のんびりとした雰囲気に満ちている。道々、登場人物が、次々に和歌を披露し、さながら、王朝文学のように思える。

そして、その直後に、以仁王が挙兵する。この高倉上皇の厳島行幸は、嵐の前の静けさのようなエピソードになっている。

巻第四:いよいよ戦が始まる

戦記物といわれる平家物語。この巻第四で、以仁王が源頼政の勧めに応じて挙兵、いよいよ先頭が始まる。

以仁王の挙兵は、あっさりと平家に鎮圧されるが、巻第五では、源頼朝が挙兵し、富士川の戦いがあり、巻第六では、木曾義仲が挙兵、そして清盛を死を迎える。

この巻第四から、平家の没落の物語が始まる。

2012年5月1日火曜日

巻第三:重盛の死

巻第三の最大のハイライトは、重盛の死だ。

清盛の子ながら、妻が、後白河法皇の側近の藤原成親の妹であっため、平家一門の中では、後白河法皇に近い存在だった。

そのせいか、平家物語の中では、重盛はいわば”いい役”。後白河法皇と対立する清盛を何度も諫めるシーンが描かれている。

物語の中では、重盛は、平家の悪行を浄めるために、自らの命を捧げたように描かれている。平家物語自体が、天皇による支配を擁護する人々によって書かれているために、自然と、重盛はいい役になる。

しかし、普通にこの物語を読んでいると、あきらかに重盛は、平家の一族の中では浮いた存在。実際の重盛は、清盛が、沢山いる自分の子供の中から、法皇に近い人脈に近づけた、子供の一人にすぎなかったのかもしれない。

巻第三:突然、歴史書モードになる平家物語

平家物語は不思議な書物だ。冒頭で諸行無常を語り、仏教の説話的な雰囲気で始まり、祇王の悲しい物語を紹介するかと思えば、突然、歴史的な事実を細かく語り始め、歴史書モードに変わる。

巻第三においても、清盛の娘、建礼門院が無事に男児を出産した際に、お祝いに清盛の住む六波羅を訪れた人々の名前が、突然列挙される。

あるいは、平清盛が厳島神社を建立したのは、高野山で、空海の霊からのお告げが原因だった、という話が紹介される。


これは、平家物語の面白さでもある。現在の、歴史絵巻の映画、NHK大河ドラマ、年末年始に大々的に宣伝される歴史大作ドラマなどは、すべて、基本的には、平家物語のスタイルを継承している。

巻第三:流刑地としての鬼界が島

流刑地として登場する鬼界が島。地図で見ると、奄美群島のすぐ近く。それにしても、これほど都から離れた地に、流刑地を設定したものだ。他に島はいくつもあったろうに、どうして鬼界が島なのか?

平家物語の中では、島に住む人々は、色も黒く、服装も全く違い、言葉も通じない、としている。古くから、太宰府と関係があったとも言われ、あるいは、別な島に流されたのではないか、とも言われている。

真相は不明だが、鬼界が島という名前からして、物語の中では、最果ての地に流される、ということが、イメージしやすい場所ではある。