一の谷の戦いで、ほぼ源氏の勝利が決定的と見るや、後白河法皇は、平家後の新体制に向けて、あわただしく準備を行う。
おそらく、自らの命も、そうは長くないことを、意識していたこもとあるだろう。
皇室に恨みを抱いて死んだ、崇徳天皇を弔う社を建て、高倉天皇が在位中にも関わらず、それに対抗して、後鳥羽上皇を即位させる。
皇室の継承の証である三種の神器は、平家側が握っている。前代未聞の、三種の神器がないままでの即位となった。
国内は、戦乱で混乱し、一般民衆は、苦しんでいるにもかかわらず、新天皇の太上の行事である、大嘗祭を結構する。平家物語の作者は、仕方ないとしながらも、そうした後白河法皇の政策を、批難している。
2012年8月26日日曜日
巻第十:維盛の入水と補陀落信仰
一の谷の戦いで、命を失いはしなかったものの、すでに二人の兄弟を失い、都に残した妻や幼い子供たちのことも忘れられない、平重盛の子の維盛。
死を覚悟して、都に上り、今一度、妻と子供に会ってから死のうと決意。高野山経由で、都に帰ろうと、平家の陣営を抜け出し、高野山までたどり着く。
しかし、重衡が源氏に捉われて生き恥を晒していることを知り、よもや、自分はそんな目に遭うことは許されないと、都行きをあきらめる。
かつての父親の部下だった、滝口入道の計らいで、出家を遂げ、熊野本宮、新宮、那智の滝を参拝した後で、勝浦沖で、入水して、自ら命を絶った。
この維盛の入水のエピソードには、海の向こうに仏の住む浄土があるという、補陀落信仰が関係している。
死を覚悟して、都に上り、今一度、妻と子供に会ってから死のうと決意。高野山経由で、都に帰ろうと、平家の陣営を抜け出し、高野山までたどり着く。
しかし、重衡が源氏に捉われて生き恥を晒していることを知り、よもや、自分はそんな目に遭うことは許されないと、都行きをあきらめる。
かつての父親の部下だった、滝口入道の計らいで、出家を遂げ、熊野本宮、新宮、那智の滝を参拝した後で、勝浦沖で、入水して、自ら命を絶った。
この維盛の入水のエピソードには、海の向こうに仏の住む浄土があるという、補陀落信仰が関係している。
巻第十:滝口入道と横笛の悲恋
巻第十では、後世、高山樗牛によって小説として描かれ、阪東妻三郎主演で映画化もされた、滝口入道と横笛のエピソードが紹介されている。
平重盛の部下であった若き滝口入道は、美しい横笛に一目惚れするが、身分を違いを理由に親に反対され、横笛が尋ねて来れないように、ついに高野山にこもり僧となった。
滝口入道が忘れられない横笛は、その悲しみのあまり、病気となり若くして亡くなってしまう。
平家物語では、一の谷の戦いで生き残ったものの、他の兄弟を失った重盛の子の維盛が、高野山を訪ね、滝口入道と再会し、自らも出家する。
平重盛の部下であった若き滝口入道は、美しい横笛に一目惚れするが、身分を違いを理由に親に反対され、横笛が尋ねて来れないように、ついに高野山にこもり僧となった。
滝口入道が忘れられない横笛は、その悲しみのあまり、病気となり若くして亡くなってしまう。
平家物語では、一の谷の戦いで生き残ったものの、他の兄弟を失った重盛の子の維盛が、高野山を訪ね、滝口入道と再会し、自らも出家する。
巻第十:鎌倉に送られた重衡
一の谷の戦いで、囚われのみとなった重衡は、一度都に送られ、やがて、鎌倉に送られ、源頼朝の前に引き立てられた。
法然と対面し、すでに死を覚悟した重衡の潔さに、頼朝を始めとした鎌倉武士たちも、大きな感銘を受ける。
さすがの頼朝も、”あなたに個人的な恨みがある訳ではない。後白河法皇の命を受けて、平家と戦っているだけだ”と応えざるを得なかった。
(重衡)をしからぬ命なれどもけひまでぞ つれなきかひのしらねをもみつ
鎌倉の人々は、重衡の潔さ、そして、美しい和歌もものにする教養の高さにも、深い感銘を受ける。
法然と対面し、すでに死を覚悟した重衡の潔さに、頼朝を始めとした鎌倉武士たちも、大きな感銘を受ける。
さすがの頼朝も、”あなたに個人的な恨みがある訳ではない。後白河法皇の命を受けて、平家と戦っているだけだ”と応えざるを得なかった。
(重衡)をしからぬ命なれどもけひまでぞ つれなきかひのしらねをもみつ
鎌倉の人々は、重衡の潔さ、そして、美しい和歌もものにする教養の高さにも、深い感銘を受ける。
巻第十:法然と対面する重衡
一の谷の戦いで、囚われのみとなり、都に送られた重衡。その重衡を、浄土宗の開祖、法然上人が訪ねる。法然は、平家物語の中では、”黒谷の法然房と申人”と紹介されている。
重衡は法然に、自分の状況を訴える。過去に起こしてしまった、東大寺の炎上や、その他の悪行を悔いて、仏道の修行を行いたいが、囚われの身では、それもできない。
法然は重衡に、当時一般に考えられているような修行ではなく、一心に念仏を唱え、囚われの身でも、一定の戒律を守れば、成仏できることを告げる。
重衡は、その法然に言葉に大変感激し、父の平清盛が、宋の皇帝から送られたという、松陰という名前の硯を、そのお礼として渡した。
時代の変わり目にあって、戦やその混乱の中で命を落とした人々に取っては、それまでの仏教は何の役にも立たなかった。法然の唱えた、新しい仏教は、そうした人々の心をつかみ、徐々に、広まっていくことになる。
重衡は法然に、自分の状況を訴える。過去に起こしてしまった、東大寺の炎上や、その他の悪行を悔いて、仏道の修行を行いたいが、囚われの身では、それもできない。
法然は重衡に、当時一般に考えられているような修行ではなく、一心に念仏を唱え、囚われの身でも、一定の戒律を守れば、成仏できることを告げる。
重衡は、その法然に言葉に大変感激し、父の平清盛が、宋の皇帝から送られたという、松陰という名前の硯を、そのお礼として渡した。
時代の変わり目にあって、戦やその混乱の中で命を落とした人々に取っては、それまでの仏教は何の役にも立たなかった。法然の唱えた、新しい仏教は、そうした人々の心をつかみ、徐々に、広まっていくことになる。
巻第十:貴族の論理と武士の論理
天皇を中心とした貴族の時代から、武士を中心にした時代へ。平家物語の時代背景には、そうした、日本の歴史の大きな分岐点がある。それを代表するエピソードが、巻第十の冒頭で紹介される。
一の谷の戦いで、平家の名だたる武将を討ち取った源氏の義経らは、その首を鴨川に晒したいと考えるが、都の貴族たちから大反対にあう。
敗れた敗将とはいえ、平家の武将たちは、それぞれ高い位を持つ貴族でもあった。過去の歴史において、そうした人々の首を鴨川に大量に晒した例はない。
しかし、義経らは、平家は親の義朝を殺した仇であり、その仇討ちの証として、鴨川に首級を晒したいと譲らない。
後白河法皇自らが、義経らの説得に当たるが、結局、義経らに押し切られ、平家の首級が、鴨川に晒されることになった。
このエピソードを見ると、過去からの伝統こそ何よりも重視する貴族と、自らのプラウドとそれを侵された時にはリベジする、という武士の論理の対比がよくわかる。義経が押し切ったということが、貴族の時代から、武士の時代に変わった、ということを、鮮やかに表している。
一の谷の戦いで、平家の名だたる武将を討ち取った源氏の義経らは、その首を鴨川に晒したいと考えるが、都の貴族たちから大反対にあう。
敗れた敗将とはいえ、平家の武将たちは、それぞれ高い位を持つ貴族でもあった。過去の歴史において、そうした人々の首を鴨川に大量に晒した例はない。
しかし、義経らは、平家は親の義朝を殺した仇であり、その仇討ちの証として、鴨川に首級を晒したいと譲らない。
後白河法皇自らが、義経らの説得に当たるが、結局、義経らに押し切られ、平家の首級が、鴨川に晒されることになった。
このエピソードを見ると、過去からの伝統こそ何よりも重視する貴族と、自らのプラウドとそれを侵された時にはリベジする、という武士の論理の対比がよくわかる。義経が押し切ったということが、貴族の時代から、武士の時代に変わった、ということを、鮮やかに表している。
巻第十:戦いの間のつかの間
巻第九で、いよいよ、源氏と平家の最終的な戦いが始まり、一の谷の戦いで、平氏は敗れ、多くの名だたる武将を失った。
この巻第十では、その後日談ともいえるエピソードが紹介され、壇ノ浦に続く戦いの、つかの間の休息、というべき内容になっている。
その中心は、囚われのみになった、東大寺の焼き討ちの実行者の重衡と、平家の唯一の良心とされた、重盛の子、維盛に関わるエピソードだ。
歴史の大筋に関わる大事件を扱いながら、その事件に関わった人物の、個人的なエピソードを紹介することで、歴史的な事件を、身近なこととして読者に思わせるのが、この平家物語の大きな特徴になっている。
この巻第十では、その後日談ともいえるエピソードが紹介され、壇ノ浦に続く戦いの、つかの間の休息、というべき内容になっている。
その中心は、囚われのみになった、東大寺の焼き討ちの実行者の重衡と、平家の唯一の良心とされた、重盛の子、維盛に関わるエピソードだ。
歴史の大筋に関わる大事件を扱いながら、その事件に関わった人物の、個人的なエピソードを紹介することで、歴史的な事件を、身近なこととして読者に思わせるのが、この平家物語の大きな特徴になっている。
2012年8月15日水曜日
巻第九:後白河法皇の本意
いよいよ、源義経、範頼が平家との戦いに向かうにあたり、後白河法皇が言ったことは、ただひとつ。”3種の神器を持ち帰れ”。
平家の元には、高倉天皇がほぼ囚われのみになっているが、後白河法皇によっては、平清盛の孫に当たる高倉天皇、あるいはその周辺の平家の人物には、何の思い入れもなかった。
後白河法皇は、ただただ、天皇家の継承の証である、3種の神器だけを、平家から取り戻したかった。
平家の元には、高倉天皇がほぼ囚われのみになっているが、後白河法皇によっては、平清盛の孫に当たる高倉天皇、あるいはその周辺の平家の人物には、何の思い入れもなかった。
後白河法皇は、ただただ、天皇家の継承の証である、3種の神器だけを、平家から取り戻したかった。
2012年8月14日火曜日
巻第九:小宰相と平通盛の悲しいエピソード
一の谷の戦いで、不運にも命を落とした、平通盛。その妻の小宰相は、都でも一番と評判の美女だった。
平通盛は、小宰相に一目惚れ。なかなかチャンスに恵まれなかったが、偶然に助けられ、憧れの小宰相を、娶ることができた。
その後は、相思相愛で幸せな日々を送っていたが、ついに、平家の一員として、源氏の戦に巻き込まれてしまう。
一の谷の戦いでの、平通盛の死を知った小宰相は、伝えらた夫の遺言に従わず、一の谷から逃れた船の上から、身を投げてしまった。
このエピソードの真偽はわからないが、これに類する話は、現実にあったことなのだろう。
平通盛は、小宰相に一目惚れ。なかなかチャンスに恵まれなかったが、偶然に助けられ、憧れの小宰相を、娶ることができた。
その後は、相思相愛で幸せな日々を送っていたが、ついに、平家の一員として、源氏の戦に巻き込まれてしまう。
一の谷の戦いでの、平通盛の死を知った小宰相は、伝えらた夫の遺言に従わず、一の谷から逃れた船の上から、身を投げてしまった。
このエピソードの真偽はわからないが、これに類する話は、現実にあったことなのだろう。
巻第九:熊谷次郎直実と平篤盛
あまりにも有名な、熊谷次郎直実と平篤盛のエピソードも、この一の谷の戦いで生まれた。
我が子と同じ年かっこうの若き武士、平篤盛を、心を鬼にして討ち取った熊谷次郎直実。その篤盛の鎧の中から、美しいにおいの香と、美しい笛がでてくる。
その笛は、戦いの前夜、平家の軍勢の中から聞こえ、相手方の源氏の武士の心をも癒した、美しい音色を奏でたものだった。
この美しいエピソードは、総大将、義経のもとにも伝わり、それを聞いた源氏の武将は、誰もが涙を流した。命を懸けた戦の中にあっても、誰もがその心の中には、こうした気持ちを持っていた。
平家物語には書かれていないが、熊谷次郎直実は、この戦の後、出家して、浄土宗の開祖、法然上人のもとで、その生涯を過ごしたという。
我が子と同じ年かっこうの若き武士、平篤盛を、心を鬼にして討ち取った熊谷次郎直実。その篤盛の鎧の中から、美しいにおいの香と、美しい笛がでてくる。
その笛は、戦いの前夜、平家の軍勢の中から聞こえ、相手方の源氏の武士の心をも癒した、美しい音色を奏でたものだった。
この美しいエピソードは、総大将、義経のもとにも伝わり、それを聞いた源氏の武将は、誰もが涙を流した。命を懸けた戦の中にあっても、誰もがその心の中には、こうした気持ちを持っていた。
平家物語には書かれていないが、熊谷次郎直実は、この戦の後、出家して、浄土宗の開祖、法然上人のもとで、その生涯を過ごしたという。
巻第九:歌人忠教の最後
平家の武将でありながら、歌人としても知られ、藤原俊成とも交流のあった忠教は、一の谷の合戦の中で命を落とした。
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし
その武具の中から、この歌を記した紙が見つかったという。誠に、過酷な時代ではあった。
ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし
その武具の中から、この歌を記した紙が見つかったという。誠に、過酷な時代ではあった。
巻第九:卑怯な源氏の武士
猪俣の小平六則綱という源氏の武士がいる。
この男は、平家側の名だたる武将、越中前司盛俊に、あわや殺されそうになるが、”降参している武士を殺すのか”と叫び、情けをかけた盛俊によって、命を救われた。
しかし、その恩にもかかわらず、盛俊が別な事態に気を許した隅を逃さず、盛俊の首を上げ、自らの手柄として報告している。
今の常識から見れば、卑怯ということになるが、当時の常識では、決して卑怯な高位ではなかったのかもしれない。
この男は、平家側の名だたる武将、越中前司盛俊に、あわや殺されそうになるが、”降参している武士を殺すのか”と叫び、情けをかけた盛俊によって、命を救われた。
しかし、その恩にもかかわらず、盛俊が別な事態に気を許した隅を逃さず、盛俊の首を上げ、自らの手柄として報告している。
今の常識から見れば、卑怯ということになるが、当時の常識では、決して卑怯な高位ではなかったのかもしれない。
巻第九:巴という名の美女武将
巻第九には、2人の印象的な女性が登場する。そのうちの一人が、巴である。
木曾義仲が信濃にいた時代から、側についていた女性で、恋人同士だったのかどうかまでは、平家物語には書かれていない。
とても美しい女性で、しかも、男顔負けの強い武将でもあった。
義仲が、宇治・瀬田の戦いで、最後の5人になるまで残っていたが、義仲が、最後に近くに女性がいた、ということを後世に伝えたくなかったため、義仲から、落ち延びるように説得され、東の国に去った、と書かれている。
しかも、その直前に、源氏の名だたる武将を、力ずくでねじ伏せて、首をねじ切ってから、逃げた、という。
木曾義仲が信濃にいた時代から、側についていた女性で、恋人同士だったのかどうかまでは、平家物語には書かれていない。
とても美しい女性で、しかも、男顔負けの強い武将でもあった。
義仲が、宇治・瀬田の戦いで、最後の5人になるまで残っていたが、義仲が、最後に近くに女性がいた、ということを後世に伝えたくなかったため、義仲から、落ち延びるように説得され、東の国に去った、と書かれている。
しかも、その直前に、源氏の名だたる武将を、力ずくでねじ伏せて、首をねじ切ってから、逃げた、という。
巻第九:義仲の最後とその評価
義仲は、義経と範頼の軍勢が、京都の迫っているにもかかわらず、好きな女性の元に入り浸り、なかなか戦闘に向かおうとしない。
それに呆れ果てた側近が、自ら切腹して、義仲は、ようやく目を覚まし、戦場に向かうが、すでに体制は決まっていた。
倶利伽羅峠の戦いで、平氏の軍勢を破ってから、およそ8ヶ月余りで、義仲は、宇治・瀬田の戦いで、その短い生涯を終えた。
平家物語全体を通じて、義仲に対する評価は、驚くほど低い。平清盛に代表される、多くの平家の人間に比べても、明らかに、劣った人物として描かれている。
平家物語は、都の視点で描かれており、田舎者の義仲に対する評価の低さは、そうしたところからきているのだろう。
それに呆れ果てた側近が、自ら切腹して、義仲は、ようやく目を覚まし、戦場に向かうが、すでに体制は決まっていた。
倶利伽羅峠の戦いで、平氏の軍勢を破ってから、およそ8ヶ月余りで、義仲は、宇治・瀬田の戦いで、その短い生涯を終えた。
平家物語全体を通じて、義仲に対する評価は、驚くほど低い。平清盛に代表される、多くの平家の人間に比べても、明らかに、劣った人物として描かれている。
平家物語は、都の視点で描かれており、田舎者の義仲に対する評価の低さは、そうしたところからきているのだろう。
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