2012年9月17日月曜日

巻第十二:平家一門の断絶

物語の最後は、平重盛の嫡男、維盛の子、六代の死が描かれる。

出家し、文覚上人のいる高雄の地で修行を重ねていたが、鎌倉からの執拗な追求を受け、ついに、最後の日が訪れる。

かしらをばそったりとも、心をばよもそらじ。

というのが、鎌倉側の六代に対する見方だった。

ついに、鎌倉に送られる途中、駿河の国の田後川というところで、首を切られた。

それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。

というのが、この物語の最後の言葉である。

この巻第十二の次に、灌頂巻があるが、実質的には、この巻第十二が、この物語の最後といえるだろう。

巻第十二:隠岐へ流された文覚上人

頼朝に、後白河法皇からの院宣を届けるなど、物語の中で重要な役割を果たしていた文覚上人。

しかし、頼朝の死後は、その存在は、周囲から煙たがられ、邪魔者としてしか、映らなくなる。

特に、後白河法皇亡き後、朝廷の実力者になった後鳥羽天皇は、文覚上人から、政治ではなく遊びばかりに熱心だと批判され、文覚上人を快く思っていなかった。

ついに、文覚上人は、80才を迎える直前に、謀反の疑いをかけられ、隠岐の島に島流しの刑にあう。

文覚上人は、後鳥羽天皇を深く恨んでいたが、後年、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は、奇しくも、同じ隠岐の島に流された。

巻第十二:後白河法皇と頼朝の死

物語も終盤にさしかかり、二人の巨人も、この物語から退場して行く。

建久3年3月13日に、後白河法皇が66才にして死去。若き頃は今様に明け暮れ、天皇には相応しくないといわれながら、後年は、武士の時代に訪れに際し、いかに朝廷を維持するかに腐心した生涯だった。

建久10年1月13日には、源頼朝が53才にして死去。

物語では、後白河法皇の死は大きく扱っているが、頼朝の死は、文覚上人の島流しのエピソードの中の背景としてしか、紹介されていない。

都とそこに縁のある人々を中心にしたこの物語にいて、鎌倉にいる頼朝の存在は、それほど大きな位置を与えられてはいない。

巻第十二:維盛の若君の運命

平重盛の嫡男、維盛は、那智の沖で入水したが、その家族、妻と二人の子供は、まだ都に残っていた。

しかし、彼らにも、源氏による平家の残党狩りの手が迫っていた。

まず、若君が捕えられ、殺されそうになるが、文覚上人がそれを聞き、鎌倉に出向いて、頼朝に除名を乞うことを試みる。

家族は一旦は安心するが、その帰りが遅く、若君の処刑の日が近づき、ついにその日を迎えてしまう。最初の切り手は、あまりのむごさに殺す気が失せてしまう。

次の切り手を探しているうちに、頼朝からの助命の書状をもった文覚が到着し、若君は、文覚の元で、僧として生き残ることを許される。

このエピソードの描写は見事。最後の処刑のシーンは、原文で読んでも手に汗握るような緊迫感が感じられる。

後日談とも取られかねない巻第十二において、このようなシーンを描いているところが、この物語の面白さだと言える。

巻第十二:平家の残党狩りが始まる

頼朝の申請により、守護・地頭を置かれることが決まり、徐々に、源氏を中心とした政治体制が整いつつあった。

そんな中で、源氏の勢力により、平家の残党狩りが始まる。

頼朝自身が、幼き命を助けられ、その後平家に復讐したこともあり、頼朝としては、そうした事態を防ぐ必要があった。

源氏との戦いで散った平家の人々の子供達が、次々と捕えられ、その命を奪われて行った。

無下にをさなきをば水に入れ、土にうずみ、少しおとなしきをばおし殺し、さし殺す。

といった具合だった。

戦いは、まだ終わってはいなかったのだ。

巻第十二:義経の最後は描かれず

頼朝から許しのないまま、鎌倉に帰れず、都で暮らしていた義経。

鎌倉では、梶原景時らの讒言らによって、ついに頼朝は義経の討伐を決意し、都にその使いを送る。

義経は、都を後にするにあたり、後白河法皇に、”院の命令で鎮西する”という正式な文書を書いてくれるようにと要請する。後白河法皇は、このことが頼朝に知られたら、あとで問題になると感じする。

しかし、周囲気の側近は、もしその文書を発行しない場合は、義経が都に居残り、頼朝の軍勢と都において合戦を繰り広げるので、都がより荒廃してしまうと進言し、ついに、後白河法皇は、文書を発行する。

義経が奥州に都落ちすると、今度は頼朝から、後白河法皇に、義経追討の院宣を出すように要請され、後白河法皇は、これもいわれるがままに院宣を出してしまう。

当時の朝廷の立ち位置が象徴されているエピソードだ。

この物語では、その後の義経の運命は描かれていない。

巻第十二:大地震が都を襲う

平家が壇ノ浦で敗れ、戦いは終わり、世の中は平穏に戻ったように思われた。

そんな矢先、都を中心に、西日本を大地震が襲った。京都の御所、法勝寺、三十三間堂など、主立った建物は倒壊などの被害に襲われた。

また、津波が西日本一帯を襲うなどの災害で、”死ぬるもの、いくらという数を知らず。”という状態だった。

しかも、余震が長く続き、多くの人が、この世の終わりが来るのではないか、と恐れていたという。

2012年9月11日火曜日

巻第十一:重衡の最後

一の谷の戦いで、源氏の捕虜となり、都で幽閉されていた時に、法然上人と出会い、念仏に目覚めた平重衡。

その潔い姿は、頼朝を始めとした、鎌倉武士達からも一目置かれ、鎌倉で、比較的自由な、幽閉生活を送っていた。

しかし、重衡が焼き討ちしたことで焼失してしまった、東大寺を始めとする南都の勢力から、執拗な引き渡しの要求を受けて、ついに頼朝も、重衡を南都側に引き渡すことになった。

南都で殺される直前、妻との最後の別れのシーンが物語に描かれ、人々の涙を誘う。

その遺体は、後に東大寺の大仏を再建することに大いに貢献した、重源の手で、弔われたという。

巻第十一:リアルな腰越状

意気揚々と、鎌倉へ凱旋する義経だったが、梶原景時の源頼朝への讒言により、頼朝から鎌倉に入ることを許されず、腰越の地で、かの有名な、腰越状を書き、頼朝に送る。

源義経恐れながら申し上げ候意趣者・・・

ではじまる文章が、この物語では長々と引用されている。

勿論、これが、本物であるかどうかは、誰にもわからない。多分、だれかの創作だろう。

しかし、文章が、いかにも本物らしい。この物語が、単なる物語ではなく、本当の話のように思わせる演出のひとつが、こうした部分にも見ることができる。

巻第十一:鏡は戻り剣は消えた

平家が皇位継承の証として、最後まで自らの手元に置いていた三種の神器。このうち、剣は壇ノ浦の海に消えたが、鏡と勾玉は、無事に都に戻った。

この物語の中では、剣と鏡についての、話を詳しく紹介している。

日本は、3本の霊剣が存在し、皇室に伝わるのは、そのうち、スサノオが八岐大蛇から手に入れた、いわゆる草薙の剣であること。

鏡は、天照大神が、自らの姿を映して、後世に伝えた物であること、などのエピソードを紹介している。

なぜか、もうひとつの神器、勾玉については、何の話も伝えてはいない。

巻第十一:大勝の器ではなかった宗盛

いさぎよく、海に身を投げた清盛の四男、知盛に比べると、清盛の三男で、清盛の死後、平家の大勝であった宗盛は、周りの物が次々と海に消えて行くのをただ眺めているだけ。

さすがに見かねた配下の武士が、海に引きずり込もうとしたが、源氏の軍勢に捕まってしまう。

他の捕虜とともに、都に送られる途中、明石の地で、優雅に和歌などを詠んでいる。

我身こそあかしの浦にたびねせめ おなじ浪にもやどる月かな

母の時子、弟の知盛、妹の子の安徳天皇、その他のおびただしい数の一族の死を目の当りに下にも関わらず、自らの境遇を嘆く宗盛。

どうみても、彼は、大勝の器ではなかった。

2012年9月10日月曜日

巻第十一:知盛は何を見たのか?

壇ノ浦の戦いも終盤、平家の軍勢はすでに壊滅。安徳天皇も、海の中に姿を消した。

平清盛の四男として生まれ、清盛が、自らの跡継ぎに最も望んだといわれる、平知盛。彼の最後の言葉は、この物語りの中でも、最も印象の深いもの一つだ。

見るべき程の事は見つ。

一般的には、”平家の最後を見届けた”、と解釈されるが、本当に、それだけなのだろうか?

果たして、知盛は、その34年の人生の最後に、何を見たのだろうか?

巻第十一:安徳天皇の死

壇ノ浦の戦いも、源氏の大勝が明らかになり、平家の一族は、次々に、海に自らの身を投げて行く。

その中で、現職の天皇、安徳天皇も、平清盛の妻、時子の導きで、海の底に旅立って行った。わずか8才だった。

すでに、都では、後白河法皇が、後鳥羽天皇を即位させているが、三種の神器は、平家側が握っており、後鳥羽天皇の即位には、正統性が疑われる。

この戦いの、日本史上における意味の大きさは、この安徳天皇の死に、現れている。


巻第十一:熊野別当湛増の変心

当時、最強の水軍を誇っていた、熊野別当の湛増。妹が、平家一族に嫁いだこともあり、平家側につくと考えられていた。

しかし、平家の凋落は誰の目にも明らか。湛増は、壇ノ浦の戦いを前に、田辺の神社に、どちらにつくべきかを問う。答えは”源氏につけ”。

それでも、まだ納得できなかった湛増は、鶏を源氏と平家に見立て、7匹づつで闘鶏を行うが、源氏側の鶏が、すべて勝ってしまい、ついに、源氏側につくことに心を決めた。

おそらく、湛増自身は、早くから源氏につことを決めていたのだろう。こうした演出をすることで、周囲を納得させたのだ。

巻第十一:那須与一の神頼み

これまた有名な、那須与一の、扇を弓で射落とすエピソード。

弓に覚えのある与一だが、的が遠く、しかも、風が強く、波も高い。そこで、目をつむって、神頼み。

なんと、拝んだ神様は、南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神。

これだけの神に祈れば、その効果もあろうというもの。目を開けると、風と波もおさまり、与一は首尾よく、扇を射落とすことができた。

この物語では、仏教の”諸行無常”という言葉で始まるが、いざ戦闘となると、神頼みするパターンが多い。

現世の利益は、神々に頼み。死後の利益は、仏に頼む。宗教の使い分けは、このころから、行われていた。

巻第十一:義経と梶原景時の対立

現代のテレビの時代劇でも有名な、義経と梶原景時の対立は、この物語の中でも描かれている。

梶原景時が、”よき大将軍とは、攻める時と、引く時のタイミングを心得ているものだ。”と述べるのに対して、義経は、以下のように応じる。

ただただひら攻めに攻めて勝ったるぞ心地はよき

平家を一気に滅亡に追い込んだのは、この義経の、猪突猛進ぶりによるところが大きいと、この物語の作者は考えていた。