2012年9月17日月曜日

巻第十二:義経の最後は描かれず

頼朝から許しのないまま、鎌倉に帰れず、都で暮らしていた義経。

鎌倉では、梶原景時らの讒言らによって、ついに頼朝は義経の討伐を決意し、都にその使いを送る。

義経は、都を後にするにあたり、後白河法皇に、”院の命令で鎮西する”という正式な文書を書いてくれるようにと要請する。後白河法皇は、このことが頼朝に知られたら、あとで問題になると感じする。

しかし、周囲気の側近は、もしその文書を発行しない場合は、義経が都に居残り、頼朝の軍勢と都において合戦を繰り広げるので、都がより荒廃してしまうと進言し、ついに、後白河法皇は、文書を発行する。

義経が奥州に都落ちすると、今度は頼朝から、後白河法皇に、義経追討の院宣を出すように要請され、後白河法皇は、これもいわれるがままに院宣を出してしまう。

当時の朝廷の立ち位置が象徴されているエピソードだ。

この物語では、その後の義経の運命は描かれていない。

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