2012年10月3日水曜日

灌頂巻:建礼門院の最後

建礼門院がなくなる直前に、次のような描写がある。

御念仏のこえ、ようようよわらせましましければ、西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽そらに聞ゆ。

この直後に、建礼門院は息を引き取る。そして、この物語全体も、終わりを迎える。

阿弥陀如来の来迎をイメージしている、といわれるこのシーンだが、映画を見慣れた現代人は、すぐに、SFXを駆使した特撮シーンを想像してしまう。

一度読んだら、二度と忘れられないシーンだ。

灌頂巻:建礼門院がこの物語の主題を語る

建礼門院は、この物語を総括するように、次のように語る。

父の清盛の、傍若無人な非道な振る舞いが、平家一門の滅亡を招いてしまった。幼くしてなくなった安徳天皇と、平家一門が、成仏できるように、ひたすら祈りを捧げている。

この言葉は、この物語の作者が、一番言いたかったことを、そのまま語っているように思える。

灌頂巻:後白河法皇の大原御幸

大原の寂光院に住む建礼門院の元に、後白河法皇が訪れる。

後に描かれた絵画などでは、後白河法皇が一人、さびれた寺を訪れる、というイメージで描かれているが、この物語の中では、随行に20人弱ほどを引き連れての、大掛かりな御幸として描かれている。

建礼門院は、夫の高倉天皇が、若くして亡くなった後に、清盛の手によって、後白河法皇と再婚させられそうになったが、さすがにこれを固辞した、ということがあった。

後白河法皇が訪れたとき、迎えにでた女性が、実は平治の乱で不運の死を遂げた信西の娘であることが明かされる。

平治物語も読んでいる人は、このシーンでいろいろな感慨にふけることだろう。そんなところにも、この物語の作者の、心憎い演出が見て取れる。

灌頂巻:美しい寂光院の描写

平清盛と正室時子の娘にして、高倉天皇の后であった建礼門院。彼女が、壇ノ浦で死に切れず、死者の弔いの地に選んだのは、大原の寂光院だった。

この巻での、寂光院の描写が美しい。京の町からは遠く離れ、寂しい山奥で、鹿の音がかすかに聞こえ、など、屏風絵や、映画の美しい1シーンになりそうなその描写力にうっとりしてしまう。

今も、多くの人が、この物語で作られたイメージに触発されて、この場所を訪れる。物語世界の現実世界への影響の大きさを、改めて実感させられる。

灌頂巻:建礼門院をめぐる後日談

平家物語は、巻第十二の六代被斬をもって終わりを告げた。しかし、その他に、灌頂巻という、建礼門院をめぐる後日談の巻がある。

この巻は短いが、建礼門院が自らの波乱の生涯を振り返りながら、それが、この物語全体のストーリーを振り返ることになっている。

現代の小説や映画でも、同じような構成が見られるが、こんな古い時代から、そうした手法が使われてきた、ということに、素直に驚きを感じる。

2012年9月17日月曜日

巻第十二:平家一門の断絶

物語の最後は、平重盛の嫡男、維盛の子、六代の死が描かれる。

出家し、文覚上人のいる高雄の地で修行を重ねていたが、鎌倉からの執拗な追求を受け、ついに、最後の日が訪れる。

かしらをばそったりとも、心をばよもそらじ。

というのが、鎌倉側の六代に対する見方だった。

ついに、鎌倉に送られる途中、駿河の国の田後川というところで、首を切られた。

それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。

というのが、この物語の最後の言葉である。

この巻第十二の次に、灌頂巻があるが、実質的には、この巻第十二が、この物語の最後といえるだろう。

巻第十二:隠岐へ流された文覚上人

頼朝に、後白河法皇からの院宣を届けるなど、物語の中で重要な役割を果たしていた文覚上人。

しかし、頼朝の死後は、その存在は、周囲から煙たがられ、邪魔者としてしか、映らなくなる。

特に、後白河法皇亡き後、朝廷の実力者になった後鳥羽天皇は、文覚上人から、政治ではなく遊びばかりに熱心だと批判され、文覚上人を快く思っていなかった。

ついに、文覚上人は、80才を迎える直前に、謀反の疑いをかけられ、隠岐の島に島流しの刑にあう。

文覚上人は、後鳥羽天皇を深く恨んでいたが、後年、承久の変に敗れた後鳥羽上皇は、奇しくも、同じ隠岐の島に流された。

巻第十二:後白河法皇と頼朝の死

物語も終盤にさしかかり、二人の巨人も、この物語から退場して行く。

建久3年3月13日に、後白河法皇が66才にして死去。若き頃は今様に明け暮れ、天皇には相応しくないといわれながら、後年は、武士の時代に訪れに際し、いかに朝廷を維持するかに腐心した生涯だった。

建久10年1月13日には、源頼朝が53才にして死去。

物語では、後白河法皇の死は大きく扱っているが、頼朝の死は、文覚上人の島流しのエピソードの中の背景としてしか、紹介されていない。

都とそこに縁のある人々を中心にしたこの物語にいて、鎌倉にいる頼朝の存在は、それほど大きな位置を与えられてはいない。

巻第十二:維盛の若君の運命

平重盛の嫡男、維盛は、那智の沖で入水したが、その家族、妻と二人の子供は、まだ都に残っていた。

しかし、彼らにも、源氏による平家の残党狩りの手が迫っていた。

まず、若君が捕えられ、殺されそうになるが、文覚上人がそれを聞き、鎌倉に出向いて、頼朝に除名を乞うことを試みる。

家族は一旦は安心するが、その帰りが遅く、若君の処刑の日が近づき、ついにその日を迎えてしまう。最初の切り手は、あまりのむごさに殺す気が失せてしまう。

次の切り手を探しているうちに、頼朝からの助命の書状をもった文覚が到着し、若君は、文覚の元で、僧として生き残ることを許される。

このエピソードの描写は見事。最後の処刑のシーンは、原文で読んでも手に汗握るような緊迫感が感じられる。

後日談とも取られかねない巻第十二において、このようなシーンを描いているところが、この物語の面白さだと言える。

巻第十二:平家の残党狩りが始まる

頼朝の申請により、守護・地頭を置かれることが決まり、徐々に、源氏を中心とした政治体制が整いつつあった。

そんな中で、源氏の勢力により、平家の残党狩りが始まる。

頼朝自身が、幼き命を助けられ、その後平家に復讐したこともあり、頼朝としては、そうした事態を防ぐ必要があった。

源氏との戦いで散った平家の人々の子供達が、次々と捕えられ、その命を奪われて行った。

無下にをさなきをば水に入れ、土にうずみ、少しおとなしきをばおし殺し、さし殺す。

といった具合だった。

戦いは、まだ終わってはいなかったのだ。

巻第十二:義経の最後は描かれず

頼朝から許しのないまま、鎌倉に帰れず、都で暮らしていた義経。

鎌倉では、梶原景時らの讒言らによって、ついに頼朝は義経の討伐を決意し、都にその使いを送る。

義経は、都を後にするにあたり、後白河法皇に、”院の命令で鎮西する”という正式な文書を書いてくれるようにと要請する。後白河法皇は、このことが頼朝に知られたら、あとで問題になると感じする。

しかし、周囲気の側近は、もしその文書を発行しない場合は、義経が都に居残り、頼朝の軍勢と都において合戦を繰り広げるので、都がより荒廃してしまうと進言し、ついに、後白河法皇は、文書を発行する。

義経が奥州に都落ちすると、今度は頼朝から、後白河法皇に、義経追討の院宣を出すように要請され、後白河法皇は、これもいわれるがままに院宣を出してしまう。

当時の朝廷の立ち位置が象徴されているエピソードだ。

この物語では、その後の義経の運命は描かれていない。

巻第十二:大地震が都を襲う

平家が壇ノ浦で敗れ、戦いは終わり、世の中は平穏に戻ったように思われた。

そんな矢先、都を中心に、西日本を大地震が襲った。京都の御所、法勝寺、三十三間堂など、主立った建物は倒壊などの被害に襲われた。

また、津波が西日本一帯を襲うなどの災害で、”死ぬるもの、いくらという数を知らず。”という状態だった。

しかも、余震が長く続き、多くの人が、この世の終わりが来るのではないか、と恐れていたという。

2012年9月11日火曜日

巻第十一:重衡の最後

一の谷の戦いで、源氏の捕虜となり、都で幽閉されていた時に、法然上人と出会い、念仏に目覚めた平重衡。

その潔い姿は、頼朝を始めとした、鎌倉武士達からも一目置かれ、鎌倉で、比較的自由な、幽閉生活を送っていた。

しかし、重衡が焼き討ちしたことで焼失してしまった、東大寺を始めとする南都の勢力から、執拗な引き渡しの要求を受けて、ついに頼朝も、重衡を南都側に引き渡すことになった。

南都で殺される直前、妻との最後の別れのシーンが物語に描かれ、人々の涙を誘う。

その遺体は、後に東大寺の大仏を再建することに大いに貢献した、重源の手で、弔われたという。

巻第十一:リアルな腰越状

意気揚々と、鎌倉へ凱旋する義経だったが、梶原景時の源頼朝への讒言により、頼朝から鎌倉に入ることを許されず、腰越の地で、かの有名な、腰越状を書き、頼朝に送る。

源義経恐れながら申し上げ候意趣者・・・

ではじまる文章が、この物語では長々と引用されている。

勿論、これが、本物であるかどうかは、誰にもわからない。多分、だれかの創作だろう。

しかし、文章が、いかにも本物らしい。この物語が、単なる物語ではなく、本当の話のように思わせる演出のひとつが、こうした部分にも見ることができる。

巻第十一:鏡は戻り剣は消えた

平家が皇位継承の証として、最後まで自らの手元に置いていた三種の神器。このうち、剣は壇ノ浦の海に消えたが、鏡と勾玉は、無事に都に戻った。

この物語の中では、剣と鏡についての、話を詳しく紹介している。

日本は、3本の霊剣が存在し、皇室に伝わるのは、そのうち、スサノオが八岐大蛇から手に入れた、いわゆる草薙の剣であること。

鏡は、天照大神が、自らの姿を映して、後世に伝えた物であること、などのエピソードを紹介している。

なぜか、もうひとつの神器、勾玉については、何の話も伝えてはいない。

巻第十一:大勝の器ではなかった宗盛

いさぎよく、海に身を投げた清盛の四男、知盛に比べると、清盛の三男で、清盛の死後、平家の大勝であった宗盛は、周りの物が次々と海に消えて行くのをただ眺めているだけ。

さすがに見かねた配下の武士が、海に引きずり込もうとしたが、源氏の軍勢に捕まってしまう。

他の捕虜とともに、都に送られる途中、明石の地で、優雅に和歌などを詠んでいる。

我身こそあかしの浦にたびねせめ おなじ浪にもやどる月かな

母の時子、弟の知盛、妹の子の安徳天皇、その他のおびただしい数の一族の死を目の当りに下にも関わらず、自らの境遇を嘆く宗盛。

どうみても、彼は、大勝の器ではなかった。

2012年9月10日月曜日

巻第十一:知盛は何を見たのか?

壇ノ浦の戦いも終盤、平家の軍勢はすでに壊滅。安徳天皇も、海の中に姿を消した。

平清盛の四男として生まれ、清盛が、自らの跡継ぎに最も望んだといわれる、平知盛。彼の最後の言葉は、この物語りの中でも、最も印象の深いもの一つだ。

見るべき程の事は見つ。

一般的には、”平家の最後を見届けた”、と解釈されるが、本当に、それだけなのだろうか?

果たして、知盛は、その34年の人生の最後に、何を見たのだろうか?

巻第十一:安徳天皇の死

壇ノ浦の戦いも、源氏の大勝が明らかになり、平家の一族は、次々に、海に自らの身を投げて行く。

その中で、現職の天皇、安徳天皇も、平清盛の妻、時子の導きで、海の底に旅立って行った。わずか8才だった。

すでに、都では、後白河法皇が、後鳥羽天皇を即位させているが、三種の神器は、平家側が握っており、後鳥羽天皇の即位には、正統性が疑われる。

この戦いの、日本史上における意味の大きさは、この安徳天皇の死に、現れている。


巻第十一:熊野別当湛増の変心

当時、最強の水軍を誇っていた、熊野別当の湛増。妹が、平家一族に嫁いだこともあり、平家側につくと考えられていた。

しかし、平家の凋落は誰の目にも明らか。湛増は、壇ノ浦の戦いを前に、田辺の神社に、どちらにつくべきかを問う。答えは”源氏につけ”。

それでも、まだ納得できなかった湛増は、鶏を源氏と平家に見立て、7匹づつで闘鶏を行うが、源氏側の鶏が、すべて勝ってしまい、ついに、源氏側につくことに心を決めた。

おそらく、湛増自身は、早くから源氏につことを決めていたのだろう。こうした演出をすることで、周囲を納得させたのだ。

巻第十一:那須与一の神頼み

これまた有名な、那須与一の、扇を弓で射落とすエピソード。

弓に覚えのある与一だが、的が遠く、しかも、風が強く、波も高い。そこで、目をつむって、神頼み。

なんと、拝んだ神様は、南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神。

これだけの神に祈れば、その効果もあろうというもの。目を開けると、風と波もおさまり、与一は首尾よく、扇を射落とすことができた。

この物語では、仏教の”諸行無常”という言葉で始まるが、いざ戦闘となると、神頼みするパターンが多い。

現世の利益は、神々に頼み。死後の利益は、仏に頼む。宗教の使い分けは、このころから、行われていた。

巻第十一:義経と梶原景時の対立

現代のテレビの時代劇でも有名な、義経と梶原景時の対立は、この物語の中でも描かれている。

梶原景時が、”よき大将軍とは、攻める時と、引く時のタイミングを心得ているものだ。”と述べるのに対して、義経は、以下のように応じる。

ただただひら攻めに攻めて勝ったるぞ心地はよき

平家を一気に滅亡に追い込んだのは、この義経の、猪突猛進ぶりによるところが大きいと、この物語の作者は考えていた。

2012年8月26日日曜日

巻第十:着々と新体制の準備を行う後白河法皇

一の谷の戦いで、ほぼ源氏の勝利が決定的と見るや、後白河法皇は、平家後の新体制に向けて、あわただしく準備を行う。

おそらく、自らの命も、そうは長くないことを、意識していたこもとあるだろう。

皇室に恨みを抱いて死んだ、崇徳天皇を弔う社を建て、高倉天皇が在位中にも関わらず、それに対抗して、後鳥羽上皇を即位させる。

皇室の継承の証である三種の神器は、平家側が握っている。前代未聞の、三種の神器がないままでの即位となった。

国内は、戦乱で混乱し、一般民衆は、苦しんでいるにもかかわらず、新天皇の太上の行事である、大嘗祭を結構する。平家物語の作者は、仕方ないとしながらも、そうした後白河法皇の政策を、批難している。

巻第十:維盛の入水と補陀落信仰

一の谷の戦いで、命を失いはしなかったものの、すでに二人の兄弟を失い、都に残した妻や幼い子供たちのことも忘れられない、平重盛の子の維盛。

死を覚悟して、都に上り、今一度、妻と子供に会ってから死のうと決意。高野山経由で、都に帰ろうと、平家の陣営を抜け出し、高野山までたどり着く。

しかし、重衡が源氏に捉われて生き恥を晒していることを知り、よもや、自分はそんな目に遭うことは許されないと、都行きをあきらめる。

かつての父親の部下だった、滝口入道の計らいで、出家を遂げ、熊野本宮、新宮、那智の滝を参拝した後で、勝浦沖で、入水して、自ら命を絶った。

この維盛の入水のエピソードには、海の向こうに仏の住む浄土があるという、補陀落信仰が関係している。

巻第十:滝口入道と横笛の悲恋

巻第十では、後世、高山樗牛によって小説として描かれ、阪東妻三郎主演で映画化もされた、滝口入道と横笛のエピソードが紹介されている。

平重盛の部下であった若き滝口入道は、美しい横笛に一目惚れするが、身分を違いを理由に親に反対され、横笛が尋ねて来れないように、ついに高野山にこもり僧となった。

滝口入道が忘れられない横笛は、その悲しみのあまり、病気となり若くして亡くなってしまう。

平家物語では、一の谷の戦いで生き残ったものの、他の兄弟を失った重盛の子の維盛が、高野山を訪ね、滝口入道と再会し、自らも出家する。

巻第十:鎌倉に送られた重衡

一の谷の戦いで、囚われのみとなった重衡は、一度都に送られ、やがて、鎌倉に送られ、源頼朝の前に引き立てられた。

法然と対面し、すでに死を覚悟した重衡の潔さに、頼朝を始めとした鎌倉武士たちも、大きな感銘を受ける。

さすがの頼朝も、”あなたに個人的な恨みがある訳ではない。後白河法皇の命を受けて、平家と戦っているだけだ”と応えざるを得なかった。

(重衡)をしからぬ命なれどもけひまでぞ つれなきかひのしらねをもみつ

鎌倉の人々は、重衡の潔さ、そして、美しい和歌もものにする教養の高さにも、深い感銘を受ける。

巻第十:法然と対面する重衡

一の谷の戦いで、囚われのみとなり、都に送られた重衡。その重衡を、浄土宗の開祖、法然上人が訪ねる。法然は、平家物語の中では、”黒谷の法然房と申人”と紹介されている。

重衡は法然に、自分の状況を訴える。過去に起こしてしまった、東大寺の炎上や、その他の悪行を悔いて、仏道の修行を行いたいが、囚われの身では、それもできない。

法然は重衡に、当時一般に考えられているような修行ではなく、一心に念仏を唱え、囚われの身でも、一定の戒律を守れば、成仏できることを告げる。

重衡は、その法然に言葉に大変感激し、父の平清盛が、宋の皇帝から送られたという、松陰という名前の硯を、そのお礼として渡した。

時代の変わり目にあって、戦やその混乱の中で命を落とした人々に取っては、それまでの仏教は何の役にも立たなかった。法然の唱えた、新しい仏教は、そうした人々の心をつかみ、徐々に、広まっていくことになる。

巻第十:貴族の論理と武士の論理

天皇を中心とした貴族の時代から、武士を中心にした時代へ。平家物語の時代背景には、そうした、日本の歴史の大きな分岐点がある。それを代表するエピソードが、巻第十の冒頭で紹介される。

一の谷の戦いで、平家の名だたる武将を討ち取った源氏の義経らは、その首を鴨川に晒したいと考えるが、都の貴族たちから大反対にあう。

敗れた敗将とはいえ、平家の武将たちは、それぞれ高い位を持つ貴族でもあった。過去の歴史において、そうした人々の首を鴨川に大量に晒した例はない。

しかし、義経らは、平家は親の義朝を殺した仇であり、その仇討ちの証として、鴨川に首級を晒したいと譲らない。

後白河法皇自らが、義経らの説得に当たるが、結局、義経らに押し切られ、平家の首級が、鴨川に晒されることになった。

このエピソードを見ると、過去からの伝統こそ何よりも重視する貴族と、自らのプラウドとそれを侵された時にはリベジする、という武士の論理の対比がよくわかる。義経が押し切ったということが、貴族の時代から、武士の時代に変わった、ということを、鮮やかに表している。

巻第十:戦いの間のつかの間

巻第九で、いよいよ、源氏と平家の最終的な戦いが始まり、一の谷の戦いで、平氏は敗れ、多くの名だたる武将を失った。

この巻第十では、その後日談ともいえるエピソードが紹介され、壇ノ浦に続く戦いの、つかの間の休息、というべき内容になっている。

その中心は、囚われのみになった、東大寺の焼き討ちの実行者の重衡と、平家の唯一の良心とされた、重盛の子、維盛に関わるエピソードだ。

歴史の大筋に関わる大事件を扱いながら、その事件に関わった人物の、個人的なエピソードを紹介することで、歴史的な事件を、身近なこととして読者に思わせるのが、この平家物語の大きな特徴になっている。

2012年8月15日水曜日

巻第九:後白河法皇の本意

いよいよ、源義経、範頼が平家との戦いに向かうにあたり、後白河法皇が言ったことは、ただひとつ。”3種の神器を持ち帰れ”。

平家の元には、高倉天皇がほぼ囚われのみになっているが、後白河法皇によっては、平清盛の孫に当たる高倉天皇、あるいはその周辺の平家の人物には、何の思い入れもなかった。

後白河法皇は、ただただ、天皇家の継承の証である、3種の神器だけを、平家から取り戻したかった。

2012年8月14日火曜日

巻第九:小宰相と平通盛の悲しいエピソード

一の谷の戦いで、不運にも命を落とした、平通盛。その妻の小宰相は、都でも一番と評判の美女だった。

平通盛は、小宰相に一目惚れ。なかなかチャンスに恵まれなかったが、偶然に助けられ、憧れの小宰相を、娶ることができた。

その後は、相思相愛で幸せな日々を送っていたが、ついに、平家の一員として、源氏の戦に巻き込まれてしまう。

一の谷の戦いでの、平通盛の死を知った小宰相は、伝えらた夫の遺言に従わず、一の谷から逃れた船の上から、身を投げてしまった。

このエピソードの真偽はわからないが、これに類する話は、現実にあったことなのだろう。

巻第九:熊谷次郎直実と平篤盛

あまりにも有名な、熊谷次郎直実と平篤盛のエピソードも、この一の谷の戦いで生まれた。

我が子と同じ年かっこうの若き武士、平篤盛を、心を鬼にして討ち取った熊谷次郎直実。その篤盛の鎧の中から、美しいにおいの香と、美しい笛がでてくる。

その笛は、戦いの前夜、平家の軍勢の中から聞こえ、相手方の源氏の武士の心をも癒した、美しい音色を奏でたものだった。

この美しいエピソードは、総大将、義経のもとにも伝わり、それを聞いた源氏の武将は、誰もが涙を流した。命を懸けた戦の中にあっても、誰もがその心の中には、こうした気持ちを持っていた。

平家物語には書かれていないが、熊谷次郎直実は、この戦の後、出家して、浄土宗の開祖、法然上人のもとで、その生涯を過ごしたという。

巻第九:歌人忠教の最後

平家の武将でありながら、歌人としても知られ、藤原俊成とも交流のあった忠教は、一の谷の合戦の中で命を落とした。

ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし

その武具の中から、この歌を記した紙が見つかったという。誠に、過酷な時代ではあった。

巻第九:卑怯な源氏の武士

猪俣の小平六則綱という源氏の武士がいる。

この男は、平家側の名だたる武将、越中前司盛俊に、あわや殺されそうになるが、”降参している武士を殺すのか”と叫び、情けをかけた盛俊によって、命を救われた。

しかし、その恩にもかかわらず、盛俊が別な事態に気を許した隅を逃さず、盛俊の首を上げ、自らの手柄として報告している。

今の常識から見れば、卑怯ということになるが、当時の常識では、決して卑怯な高位ではなかったのかもしれない。

巻第九:巴という名の美女武将

巻第九には、2人の印象的な女性が登場する。そのうちの一人が、巴である。

木曾義仲が信濃にいた時代から、側についていた女性で、恋人同士だったのかどうかまでは、平家物語には書かれていない。

とても美しい女性で、しかも、男顔負けの強い武将でもあった。

義仲が、宇治・瀬田の戦いで、最後の5人になるまで残っていたが、義仲が、最後に近くに女性がいた、ということを後世に伝えたくなかったため、義仲から、落ち延びるように説得され、東の国に去った、と書かれている。

しかも、その直前に、源氏の名だたる武将を、力ずくでねじ伏せて、首をねじ切ってから、逃げた、という。

巻第九:義仲の最後とその評価

義仲は、義経と範頼の軍勢が、京都の迫っているにもかかわらず、好きな女性の元に入り浸り、なかなか戦闘に向かおうとしない。

それに呆れ果てた側近が、自ら切腹して、義仲は、ようやく目を覚まし、戦場に向かうが、すでに体制は決まっていた。

倶利伽羅峠の戦いで、平氏の軍勢を破ってから、およそ8ヶ月余りで、義仲は、宇治・瀬田の戦いで、その短い生涯を終えた。

平家物語全体を通じて、義仲に対する評価は、驚くほど低い。平清盛に代表される、多くの平家の人間に比べても、明らかに、劣った人物として描かれている。

平家物語は、都の視点で描かれており、田舎者の義仲に対する評価の低さは、そうしたところからきているのだろう。

2012年6月24日日曜日

巻第八:田舎者として描かれる木曾義仲

木曾義仲は、この物語の中では、戦にはめっぽう強いが、田舎育ちで、垢抜けない、田舎者として描かれている。

猫間中納言という人物を、その名前から、”猫殿”と呼び、文字通り猫のように扱う、というエピソードはその典型だろう。

また、法住寺合戦で勝利を収めた後、自らの処遇について、後鳥羽天皇がまだ幼いのでおかっぱ頭で、後白河法皇が剃髪していたことを受けて、自分はおかっぱにもなりたくないし、剃髪もしたくないので、いっそ関白にでもなろうか、と発言。

同席していた人間から、源氏の人間は関白になれない、とたしなめられている。

そうした木曾義仲の行動については、幼い頃から木曽の田舎に育ったので、都での暮らしや、そこでの振る舞いがわからなかった、とされている。

2012年6月23日土曜日

巻第八:大蛇を祖に持つ武士

平家を太宰府から追い去った豊後国の緒方三郎維義について、平家物語は不思議な話を伝えている。


維義の先祖である女性は、大蛇である男性との間に子を設けたという。


動物を祖に持つという話は、日本のみならず、世界中に伝わっている。日本にも、昔はそうした話が多かったのだろう。

巻第八:放浪する平氏

平家は、都を後にし、九州の太宰府に移り住んだ。

しかし、豊後国の緒方三郎維義に追われ、四国の讃岐に移動する。しかしその地で勢力を盛り返し、山陽道、南海道の十四カ国を支配下に置いた。

都落ちした平氏は、すぐに滅亡したイメージがあるが、壇ノ浦における滅亡までは2年あった。その間は、まだ大きな力を持っていた。

巻第八:源氏一族が都を占拠する

平家が権力を握っているときは、都には、源氏一族は、数えるほどしかいなかった。

しかし、平家が都を後にし、源氏の一族である木曾義仲が京都を制圧すると、あちこちから源氏の一族が、都に押し寄せ、都はそうした源氏の一族で溢れ帰った。

近江源氏、摂津源氏、河内源次などなど。

木曾義仲は、それらの源氏をまとめられるわけではなく、都は大きな混乱に襲われる。

巻第八:後鳥羽天皇の即位

後白河法皇は、平家が京都を去ったのをいいことに、高倉天皇の第4皇子を即位させる。後の後鳥羽天皇である。

平家が、安徳天皇を京都から連れ去っている。この時、日本には二人の天皇がいたことになる。

しかも、平家は、三種の神器も持ち去っているため、後鳥羽天皇の皇位継承の正統性には、はなはだ疑問がある。

これが、後鳥羽天皇には、後々まで大きなコンプレックスになったのだと、言われている。しかし、この物語では、本人はまだわずか4才。自分の周りで起こっていることも、よくわからない年齢だったろう。

2012年6月16日土曜日

巻第七:平家を滅ぼしたのは木曾義仲

この物語によれば、都落ちした平家の数は、およそ7,000人であったという。

平家が木曾義仲を打つべく。北陸に出発した軍勢はおよそ10万人。しかし、倶利伽羅峠の戦いで、木曾義仲の計略によって、平家の軍勢は、7万人が倶利伽羅峠に転落して死亡したという。

にわかには、信じがたい数字だが、この物語の中だけで解釈すれば、平家を実質的に滅亡に追い込んだのは、源頼朝でも義経でもなく、あきらかに、木曾義仲ということになるだろう。

巻第七:歌人としての平忠度

清盛の父である平忠盛の六男、平忠度。清盛とは異母兄弟であった。和歌に優れ、藤原定家の父である、藤原俊成に師事していた。

都落ちに当たり、その藤原俊成のもとを訪れ、自らの歌集を託した。

源平合戦の後、中断されていた勅撰和歌集、千載集の編纂が再会され、選者の藤原俊成は、読み人知らずの歌として、平忠度の次の和歌を載せた。

さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな

何のことはない、シンプルな歌のようだが、次第に、いろいろなことが、心に浮かんくる、不思議な歌だ。

巻第七:好人物に描かれる平維盛

平維盛は、この物語の中では、”いい物”として描かれている平重盛の嫡男。平維盛も、やはり好人物として描かれている。

平維盛は、妻子を残して都を立とうとするが、幼い子供が自分たちも行くといってせがむ、そのせいで、なかなか出発できない。ここでは、”いい父親役”になっている。

また、木曾義仲との戦で命を落とした、斉藤別当実守の子供たちに、都落ちせずに、都に留まることを許している。ここでは、”いい上司役”になっている。

平維盛の妻は、鹿ケ谷の陰謀に罪により、平清盛によって島流しにされ、命を落としてしまった藤原成親の娘であった。

平維盛は、この物語の中では、平家といえども、悪役の平清盛に対抗する、いい物のグループに属する人物なのだ。

巻第七:斉藤別当実守の死

木曾義仲を迎え撃った平家の陣営に、武蔵国の出身であった斉藤別当実守がいた。

斉藤は、平家が源頼朝の軍勢と初めて退治した富士川の合戦にも参加した武士で、この時、すでに70才近かった。

すでに髪の毛は真っ白。そこで、出陣にあたって、髪を黒く染め、敵からは壮年であるように見せかけての出陣。しかし、年には勝てず、木曾義仲の軍勢の若い武者に打ち取られてしまう。

たとえ、年老いても、一度戦となれば、自らの家や名誉のために、命を懸けなければならない。髪の毛を染めてまで、戦場に立たねばならなかった斉藤別当実守という存在は、強烈な印象を私の心に残した。

巻第七:平家の滅亡の始まり

この物語では、平清盛の死が、平家の滅亡の始まりであったかのように描かれている。

木曾義仲が北陸で挙兵し、倶利伽羅峠で迎え撃つ平家を撃退し、京都に迫る。それを受けて、平家はついに都落ちを決意する。

そして、本格的な戦争が始まると、死と別れを巡り、これまで以上に、劇的な物語が展開していく。

この巻第七より、平家物語が、ますます面白くなっていく。

2012年6月6日水曜日

巻第六:平家包囲網の完成

清盛の生前から、関東では頼朝が挙兵し、北陸では木曾義仲が挙兵していた。

しかし、清盛の死と前後して、平家の勢力範囲と考えられていた、四国や九州などでも、反平氏の狼煙が上がる。

寺社勢力も、南都は勿論のこと、比叡山、伊勢神宮、熊野も、反平氏に傾いていった。

清盛亡き後の、平家の頭領・宗盛は、そうした中、従一位という最高位の位に昇進する。しかし、すでに平家の命運は尽きていた。

清盛の死とともに、この物語は、平家の滅亡に向けて、大きくその流れを変えていく。

巻第六:女性の敵としての清盛

清盛が死を迎えるこの巻において、その直前に、清盛によって、不幸な生涯を送った女性の物語が描かれている。

その女性の名は、小督。高倉天皇の側に使える女性だったが、関白藤原基房という人物にも好かれていた。それを聞いた清盛は、世の男を迷わせる女であるとして、無理矢理、髪を下ろさせ、出家させてしまう。その時、わずか23才。その後すぎに、小督は命を落としてしまう。

巻第一において、有名な、祇王の悲劇が語られる。そして、清盛の死の直前で、この悲劇が紹介される。どうやら、清盛は、女性にとっては、悪魔のような存在だった、とこの物語では言いたいようだ。

巻第六:高倉上皇の死

清盛の死の直前、高倉上皇も死を迎えていた。わずか19年の生涯だった。

清盛の娘、建礼門院との間に、安徳天皇を設け、立場としては、完全に清盛派であった。しかし、興福寺の焼失や、その後の社会の混乱に心を痛め、死を迎えた。そうした、性格的に線の細い人物として描かれている。


巻第六には、高倉上皇が紅葉がよても好きだったこと。身分の低い武士が、着ているものを奪われた時に、自分の着物をあげた、という、その心優しさを表すエピソードを紹介している。

2012年6月5日火曜日

巻第六:清盛の2つの出生の秘密

平家物語の中では、悪行だけが強調されている清盛だが、この巻では、清盛の出生について、2つのエピソードを紹介している。

1つは、有名な、白河院の子であるという話。白河院が、祇園の住む、祇園女御を孕ませた後で、清盛の父、忠盛にその女を与えたという話。

もうひとつは、清盛が、比叡山の延暦寺の中興の祖、良源の生まれ変わりという話。清盛は、興福寺とは常に対立関係にあったが、比叡山とは、一時は協力関係にあった。このエピソードは、清盛と比叡山の間に、深い関係があったことを暗示している。

巻第六:清盛の死

平家物語の、ちょうど中間にあたる巻第六では、ついに、清盛が死を迎える。

清盛は、猛烈な熱病に襲われる。その熱の強烈さは、清盛の周り、四五間(1間はおよそ1.8メートル)にいると、熱くて堪えられなかった、と記されている。

物語では、清盛がそうした熱病に見舞われた原因として、奈良の東大寺や興福寺を焼失させてしまったからであるとしている。

因果応報は、平家物語をつなぬく、基本的な歴史観であった。

2012年5月16日水曜日

巻第五;奈良炎上す

清盛は、何かと反抗する奈良の興福寺に対して、いよいよ追討命令を下す。

4万人の軍勢が奈良に2方から押し寄せ、火を放ち、興福寺を始め、奈良一帯は火の海と化した。

東大寺の上にのぼった人はおよそ1700人。建物もろとも焼け落ちたその様子は、まさに地獄絵だったという。このような法難は、中国にもインドにも例はない、と物語は語る。

平氏の軍勢から逃れた人々は、吉野、あるいは山奥の十津川村にまで逃げたという。

巻第五:わずか6ヶ月で都を京に戻す

源頼朝の挙兵に応じてか、清盛は、遷都からわずか6ヶ月しかたっていない、その年の12月に突然、福原を捨てて、都を京に戻した。

物語の中では、清盛はそもそも福原に都を遷した原因を次のように記している。

京は、比叡山や興福寺のある奈良に近いので、両寺の僧兵が、容易に京に入り、狼藉を働く。両寺から遠い福原に都を遷せば、そうした事態を防ぐことができる。それが、真の原因だと。

巻第五:神護寺の文覚上人

この物語の中でも、深く印象に残る登場人物の一人が、文覚上人だ。

若い時に、熊野はもとより、金峰山、葛城、白山、立山、富士山、箱根、羽黒山など、修験道の名だたる名所で修行し、武士と戦っても引けを取らなかった。

神護寺を再興し、その勧進の仕方が過激すぎて、伊豆に流され、そこで源頼朝と出会う。頼朝のために、福原を訪ね、後白河法皇から院宣を預かり、頼朝に届けた。

文覚上人は、物語の中で、そのような超人的な活躍をした人物として描かれている。

巻第五:荊舸と始皇帝のエピソード

清盛の福原遷都を絶好のタイミングとみたのか、源頼朝が関東の地において挙兵する。挙兵は失敗し、千葉に逃れる。

物語の中では、続いて、日本の歴史上、謀反を起こして朝敵となった歴史上の人物を紹介し、その後で、中国の例として有名な、荊訶と始皇帝のエピソードを紹介している。

荊訶が始皇帝に近づくために、同士の元を訪ね、始皇帝を追いつめながら、最後には、逆に始皇帝に殺されるまでを、長々と記している。

巻第五:福原遷都の衝撃

治承4年(1180年)6月、清盛はついに福原への遷都を決行する。桓武天皇の794年の京への遷都以来の遷都の衝撃は、大変なものだった。

物語の中では、神武天皇以来の遷都の例を事細かに紹介しながらも、桓武天皇以降は行われていないことを、これでもかと強調している。

さらに、平氏の先祖は、桓武天皇に繋がることを紹介しながら、その桓武天皇の決めた都から離れることは、何と恐れ多いいことか、と嘆いている。

しかも、福原は、海に面していたことから、町の作りも五条通りまでしか造れないほど狭かった。

京の都には、次のような和歌が内裏の柱にかけられたという。

咲きいずる花の都をふりすてて風ふく原のすえぞあやふき

2012年5月2日水曜日

巻第四:源頼政の辞世の句

以仁王に挙兵を促しながら、多勢に無勢、あっさりと平家の軍門に下った源頼政。宇治の平等院に追い込まれ、自ら切腹して果てた。

その辞世の句といわれる歌が、平家物語の中で紹介されている。

埋木のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける

源氏でありながら、平治の乱においては、平家方につき、平家の支配する世の中で、肩身の狭い想いを味わい、和歌の上手さだけで出家したという、そうした自らの境遇を歌っている。

平家物語の中でも、とりわけ印象に残る和歌の一つだ。

巻第四:戦闘になると登場人物がいっぱい

以仁王の挙兵により、平家との戦闘が開始される。戦闘が始まると、がぜん、登場人物が多くなり、読んでいても、誰が誰だか、わからなくなってくる。

戦闘においては、自分がどのような成果を上げたのかが重要になる。相手の大将を討ったのは誰か、敵前逃亡したのは誰か、ということが、つまり個人の名前が大事なのだ。

武士の時代になるとは、ある意味では、個人の時代になった、ということを意味している。

巻第四:当時の公文書が載っている

以仁王の挙兵に当たって、中心となった近江の三井寺は、当時の寺社勢力の中心だった、比叡山と興福寺に、挙兵を促す文書(牒状)を送る。平家物語には、その内容が、そっくりそのまま紹介されている。

牒状は、解説によれば、当時の公文書に当たる。この内容が本物かどうかはわからないが、いかにも本物めいた雰囲気で、物語に真実味を与える効果を持っている。

巻第四:嵐の前の静けさの高倉上皇の厳島行幸

安徳天皇に位を譲った高倉上皇は、清盛の勧めに応じて、厳島神社に行幸する。これは、過去の歴史にないことで、比叡山をはじめとした各方面から反感を持って迎えられる。

しかし、平家物語のこの行幸の記述は、いささか、のんびりとした雰囲気に満ちている。道々、登場人物が、次々に和歌を披露し、さながら、王朝文学のように思える。

そして、その直後に、以仁王が挙兵する。この高倉上皇の厳島行幸は、嵐の前の静けさのようなエピソードになっている。

巻第四:いよいよ戦が始まる

戦記物といわれる平家物語。この巻第四で、以仁王が源頼政の勧めに応じて挙兵、いよいよ先頭が始まる。

以仁王の挙兵は、あっさりと平家に鎮圧されるが、巻第五では、源頼朝が挙兵し、富士川の戦いがあり、巻第六では、木曾義仲が挙兵、そして清盛を死を迎える。

この巻第四から、平家の没落の物語が始まる。

2012年5月1日火曜日

巻第三:重盛の死

巻第三の最大のハイライトは、重盛の死だ。

清盛の子ながら、妻が、後白河法皇の側近の藤原成親の妹であっため、平家一門の中では、後白河法皇に近い存在だった。

そのせいか、平家物語の中では、重盛はいわば”いい役”。後白河法皇と対立する清盛を何度も諫めるシーンが描かれている。

物語の中では、重盛は、平家の悪行を浄めるために、自らの命を捧げたように描かれている。平家物語自体が、天皇による支配を擁護する人々によって書かれているために、自然と、重盛はいい役になる。

しかし、普通にこの物語を読んでいると、あきらかに重盛は、平家の一族の中では浮いた存在。実際の重盛は、清盛が、沢山いる自分の子供の中から、法皇に近い人脈に近づけた、子供の一人にすぎなかったのかもしれない。

巻第三:突然、歴史書モードになる平家物語

平家物語は不思議な書物だ。冒頭で諸行無常を語り、仏教の説話的な雰囲気で始まり、祇王の悲しい物語を紹介するかと思えば、突然、歴史的な事実を細かく語り始め、歴史書モードに変わる。

巻第三においても、清盛の娘、建礼門院が無事に男児を出産した際に、お祝いに清盛の住む六波羅を訪れた人々の名前が、突然列挙される。

あるいは、平清盛が厳島神社を建立したのは、高野山で、空海の霊からのお告げが原因だった、という話が紹介される。


これは、平家物語の面白さでもある。現在の、歴史絵巻の映画、NHK大河ドラマ、年末年始に大々的に宣伝される歴史大作ドラマなどは、すべて、基本的には、平家物語のスタイルを継承している。

巻第三:流刑地としての鬼界が島

流刑地として登場する鬼界が島。地図で見ると、奄美群島のすぐ近く。それにしても、これほど都から離れた地に、流刑地を設定したものだ。他に島はいくつもあったろうに、どうして鬼界が島なのか?

平家物語の中では、島に住む人々は、色も黒く、服装も全く違い、言葉も通じない、としている。古くから、太宰府と関係があったとも言われ、あるいは、別な島に流されたのではないか、とも言われている。

真相は不明だが、鬼界が島という名前からして、物語の中では、最果ての地に流される、ということが、イメージしやすい場所ではある。

2012年4月15日日曜日

巻第三:鬼界ヶ島からの帰還

建礼門院の男子出産の祈願のため、重盛の進言によって、恩赦を行うことになった。

その恩赦によって、鹿ケ谷の陰謀の罪によって、遠く鬼界ヶ島に流されていた3人のうち、丹波少将成経と平の判官康頼は、許されて都に戻ることになった。

俊覚僧都は、鹿ケ谷の陰謀の主犯と判断され、帰還は許されなかった。

少将成経は、帰還の途中、期せずして、父が流された地で、父の墓と対面する。

一方、島に残された俊覚僧都は、結局、島でその生涯を終えることになった。

物語は、俊覚を助けなけなかったことを、平家の滅亡の一因としている。

巻第三:信仰心が深かった清盛

清盛は、自分の娘を天皇の后としたが、その建礼門院が懐妊した。生まれるのが男と女では大違い。清盛は、比叡山の天台座主を始め、高僧という高僧に、男子の誕生を祈願させた。

清盛は、信心深いというイメージはないが、厳島神社の創建といい、ここぞというときは、神や仏に対して祈願している。

武力を背景に成り上がったというイメージが強い清盛だが、自分の権力基盤の弱さを、清盛は誰よりも実感していたに違いない。

だからこそ、平家の危機の際には、神や仏の力に頼ったのだろう。

2012年4月8日日曜日

巻第二:平康頼の都への想い

鹿ケ谷の陰謀が発覚して、鬼界が島に流された平康頼。一日でも早く都に戻りたい一心で、島の中に熊野大社のような施設を作り、ひたら祈りを捧げていた。

自ら祝詞をつくり、それを卒塔婆に入れて、海に流した。誰かが拾って都に贈ってくれることを望んだのだ。その数、なんと千個。

その祈りが通じたのか、そのうちの1つが偶然に厳島神社まで流れ着き、知り合いの僧を通じて、都に家族の元に届けられた。

その話を聞いた清盛も、さすがに平康頼に哀れみを感じたという。

巻第二の最後に紹介される、感動的なエピソードだ。

巻第二:四天王寺で伝法灌頂を受ける後白河法皇

来るべき清盛との全面対決に備えるためか、後白河法皇は、紀三井寺の僧正から、密教の秘法をうけ、比叡山を配慮して、紀三井寺をさけて浪速の四天王寺で伝法灌頂を受ける。

しかし、これに比叡山側が反発。後白河法皇は、清盛に命じて比叡山の制圧を命じる。これにより、比叡山は一気に荒廃してしまう。

続いて、物語の中では、信濃の善光寺が、その580年の歴史に中で、初めて炎上してしまったことが記されている。

筆者は、こうした状況に対して、王法が滅びる時はまず仏法がまずはじめに滅びる、とも、これは平氏の没落の前触れであるとも記している。

巻第二:世渡り上手の藤原実定

いつの時代も、世渡り上手な人物は存在するものだ。この物語には、藤原実定という人物が登場する。

藤原実定は、知人の進言に基づいて、清盛が築いた厳島神社に長期間滞在し、自らの出世をひたすらに祈った。

そして、都に戻り、その参拝を清盛にアピール。すると、清盛はその切実さに感心し、ついには自分の子供を退けて、藤原実定を大納言に任命する。

物語の筆者は、成親とこの藤原実定を対比し、成親もそれぐらい清盛にアピールしておけば、流罪先で不遇の死を遂げることもなかったろうに、と記述している。

巻第二:因果応報の世界観

鹿ケ谷の陰謀が発覚し、首謀者である人々が捕らえられ、西光法師はすぐに殺され、大納言の藤原成親は流罪先で死を遂げる。

この二人の死について、平家物語では、それぞれ過去にあった二人の不実の事件を紹介し、それが原因で、この死を迎えたのだと解釈している。

これは、因果応報という仏教の世界観をよく表している。

巻第二:天台座主、明雲の流罪

平家物語は、平家の没落の物語だが、それにまつわる様々なエピソードも紹介している。その中でも、比叡山の天台宗の延暦寺についての記述が実に多い。

巻第二の冒頭でも、天台座主の明雲が、後白河法皇によって天台座主の座を追われ、島流しの罪に問われるエピソードが紹介される。

明雲は、支持者によってかくまわれ、島流しは回避される。平家物語の筆者は、これは全くの冤罪であるとの立場を明確にしている。

天台座主の流罪という事態は、開闢後未だに発生したことのない大事件であり、しかも、明雲は清盛の推挙により、天台座主の座についている。つまり、これは清盛と後白河法皇による権力争いを象徴する事件なのだ。

2012年3月31日土曜日

巻第一:鹿谷の陰謀と北面の武士

巻第一の中でも、最も有名なのが、この鹿谷において後白河法皇らが、平家打倒の陰謀を画策したというエピソードだろう。

物語の中では、この陰謀に、北面の武士が多く関与したと書かれている。

そしてその後、北面の武士が白河院の時に創設されたこと、そして歴史上に名を残している主要な過去の北面の武士たちを紹介している。

平家物語では、その時の事件をただ描くだけではなく、時にこうした過去の史実も所々に盛り込まれている。

これが、平家物語をして、単なる物語ではなく、歴史書的な印象を私たちに与える。この効果によって、明らかな作り話と思われるエピソードが、真実味を持って、私たちに迫ってくる。

巻第一:延暦寺と興福寺の争い

平家物語の巻第一では、延暦寺と興福寺による、額打論、つまり、どちらの名前の額を先にかけるか、という争いごとが描かれている。

平家が勃興する以前から、比叡山の延暦寺と、奈良の興福寺は、自ら兵士を抱え、朝廷にも大きな影響をあたえる存在だった。

この両者に争いが原因で、清水寺や御所の大極殿が焼け落ちるという事件もこの巻第一で描かれている。

当時の日本の66カ国のうち、半分を収めていた平家といえども、この寺社権力には、慎重に対応せざるを得なかった。

巻第一:祇王をめぐる悲しいエピソード

平家物語の巻第一の中でも、最も印象深いエピソードが、白拍子である祇王をめぐるエピソードだ。

平清盛の目に留まり、その愛と富を得た祇王だが、清盛の関心が仏御前に移ると屋敷を追われる。

祇王は一度は再び清盛の前で舞うことになるが、そのショックから、母親や妹ともに尼となり、嵯峨の山里で暮らすようになる。

ある日、自分を追い出す原因となった仏御前が訪ねてくる。仏御前も、祇王と同様に、人の心の移ろいを感じて、清盛の元を離れたのだった。

この悲しいエピソードには、白拍子とよばれた人々の置かれた状況が、どのようなものであったのかが、よく描かれている。

巻第一:海に縁のある平清盛

平家物語によると、平家が繁栄を遂げることができたのは、熊野権現のご利益による、としている。

平清盛が、伊勢から船で熊野権現を参拝した時、出世魚である鱸が船に飛び込んで来たという。この時、清盛は安芸守であった。

中国から取り寄せた高級品の数々が屋敷に飾ってあったという趣旨の記述もあり、海洋貿易で富を得たことが暗示されている。

巻第一:ごった煮の物語

平家物語は、実に、ごった煮の物語だ。

出だしは、有名な”祇園精舎の鐘の声・・・”で始まり、この物語が平家の没落の物語であることを明確に宣言する。

しかし、現代の小説のように、きっちりとした骨格がある訳でなく、歴史的な事件を紹介したり、過去の似たような事件を紹介したり、平家にまつわる人々のエピソードを不必要に長く紹介したりする。

しかし、そうしたところが、この物語の魅力でもある。